NIPPON BAUHAUS SOCIETY
1932-1933 BERLIN
ベルリン
バウハウスの誕生
1929年の大恐慌の後、1930年の9月に行なわれた帝国議会選挙の結果、ヒットラー率いるナチが台頭し、同時に共産党が得票数を伸ばした。デッサウでは1931年10月の選挙で36議席中19議席を占め、そのうち州議会ではナチが絶対多数を占めるようになった。こうしてバウハウスを1932年9月末で解体すべきとするナチの動議は採択された。しかし、この解体決定に対して教師たちが裁判に訴えた結果、デッサウ市は給与の継続支給、家財設備の貸与の義務、それにバウハウスに与えた特許と意匠登録、及びライセンス契約にもとづくすべての権利をバウハウス学長であるミース・ファン・デル・ローエに委譲する義務を負った。
デッサウ校閉鎖の後、マグデブルクとライプツィヒが、バウハウスの受け入れを申し出たが、ミースはバウハウスをベルリンで私立学校として存続させようと決めていた。彼はベルリンのシュテークリッツ地区ビルクブッシュ通りの電話工場の空き家を校舎として借りた。学業期間は全部で7学期となり、授業料は値上げされた。そして、「本校の目的は建築にかかわるすべての分野、つまり小住宅から都市計画まで、建築そのもののみならず生地などの内装に至るすべての設備施設までをマスターした建築家を育て上げることである」と述べ、新バウハウスは実務的であることを強調した。ベルリンにはマイスターのアルフレート・アルントとヨースト・シュミットを呼ばなかったので、広告学科は開講されなかった。4人の共産主義学生がそれに抗議すると、ミースは即刻彼らを退学させた。ナチを意識しての対応であった。
ミースはバウハウスをベルリンで再開するにあたって、約3万マルクに上る特許料収入と、1935年まではデッサウ市が支払う契約の教職員給与という二つの経済基盤があった。しかし1933年にヒトラーが政権掌握して間もなく、デッサウ市による家宅捜索が行なわれ、同年4月11日、遂にバウハウスはゲシュタポの手で封鎖された。
その後1960年代にバウハウスの創立者であるグロピウス自身によりバウハウスのミュージアム兼資料館がダルムシュタットで設計され、死後、建設地をベルリンに移して1979年に建設された。
(参考文献 マグダレーナ・ドロステ著『バウハウス』2011年、TASCHN)
バウハウス
アーカイブ
Bauhaus-Archiv
1979
住所 Klingelhöferstraße 14, 10785 Berlin
設計 Walter Gropius, Alex Cvijanovic and Hans Bandel
1960年にダルムシュタットでバウハウスの歴史を保存するアーカイブが設立された。要請に応えて1964~68年にグロピウスはアシスタントのクビジャノビッチ他2名と共に、丘の上に立つ建物を設計した。しかし1969年にグロピウスはアメリカのマサチューセッツで死去した。1971年にアーカイブはベルリンに移動し、クビジャノビッチがベルリンの建築家バンデルと共に実現することになった。平らな敷地に合わせて設計を修正し、オリジナルの特徴的な屋根の形状を残して完成した。バウハウスを代表する絵画、彫刻、家具などを展示し、1997年に文化財に指定された。入場者とコレクションが増え手狭になったため、2015年にバウハウスアーカイブは新しい博物館のコンペを実施した。ベルリンの建築家、ヴォルカー・シュターブ(Volker Staab)が2021年までに5階建てのガラスのタワー建築を完成させる予定だ。
Photograph credit:
© Yuki Sugihara and Toshihiko Suzuki, “NICHE 04”, Atelier OPA.
文章および写真はOpa Press『NICHE 04』より転載、加筆したものである。
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