グロピウスはバウハウス宣言で新しい学校の基本方針と目的を説明した。芸術家と職人が手を携えて「未来の建築」を実現しようとした。芸術学校改革の「近代理念」についての発端は1916年ベルリン国立博物館の総裁であったヴィルヘルム・フォン・ボーデンの書いた記事である。彼は芸術アカデミーや工芸学校、芸術学校を一つの施設にまとめてしまう提案をしている。
何人もの芸術家、ことに建築家がこの意見を取り上げた。テオドール・フィッシャーは1917年「ドイツの建築芸術のために」、建築家のフリッツ・シューマッハは1918年に「芸術教育の改革」を書いた。
特にブルーノ・タウトとバルトニングの論文はグロピウスにとって決定的な意味を持った。建築に際してあらゆる芸術が協調すべきことを訴えたブルーノ・タウトは「なぜなら工芸と彫塑あるいは絵画との間には境界は無く、すべてはひとつのもの建築を築くことだからである」と書いた。
グロピウスは語っている。
「共に作り上げようではないか、未来の新たな建築を。それは全て同じ一つの形態を取るであろう建築も彫塑も絵画も。」
グロピウスのバウハウス企画に重大な影響を与えたのは、建築家オットー・バルトニングの改革提案だったかもしれない。「マイスターたちの助言」からグロピウスは「マイスター評議会」を生んだ。バウハウスが取り入れた、徒弟-職人-マイスター(親方)の階級制もバルトニングが提案していたことである。
建築するということはグロピウスにとって社会的、精神的、象徴的行為となっていた。
グロピウスは別のものであったジャンルや職種を融合させた。建てることが大衆と芸術家を結び付けたのである。
バウハウス宣言の表紙はライオネル・ファイニンガーの大聖堂の版画である。絵画、彫刻、建築の三つの芸術を表す三つの光が交錯している。大聖堂は総合芸術の比喩であり、象徴であった。
バウハウスで実行された理念統合は統一などというもの以上で、優れた創造的な行為であった。
バウハウスは第一次世界大戦後の制度改革を取り入れた最初の芸術学校として教育活動を開始した。
グロピウスが掲げた新たな目標は「皆が手仕事で共同で作り上げる建築」であった。
従来の教授に代わって、教育を指導するのはマイスターである。生徒たちは徒弟と呼ばれ、やがて職人衆や若マイスターに昇進することが出来た。マイスター評議会が全ての案件を決定し、新たなマイスターを招聘する権利を持っていた。
形態を受け持つマイスターも工作を受け持つマイスターも同時に教えることになっていた。形態マイスターが造形、技術マイスターが手工業技術を教えた。(当時、デザインという言葉が無く形態という語を用いていた。)
このことで芸術家と職人との間のプライドの垣根は取り払われた。
グロピウスはバウハウスで若い人たちを教育し、社会全体に効果を波及させることを狙っていた。そして強力な共同体意識が第一期バウハウスの特徴であった。
「新しい人間」のための計画、デザイン、建築が国家として求められていた。バウハウスの全員が芸術家を自負していたが、同時に手工業技術や教育活動を通じて「未来の大聖堂」を築くための努力を望んでいた。
最初の年に画家のヨハネス・イッテン、ライオネル・ファイニンガー、彫刻家のゲハルト・マルクスを招聘した。3人はバウハウス教授の根幹となった。
城井廣邦(日本バウハウス協会専務理事)